HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲6 Jugend

1 十字架


行進する者達の影を、彼は目で追っていた。その中には見知った顔も何人かいた。が、彼らが自分に気が付く事はないだろう。何故なら、彼らの視線は前だけを見るように、しっかり固定されていたからだ。風にはためく旗がポールに固定されているように、彼らもまた集団となることで一つのポールに括り付けられていた。影は影でしかなく、他の誰かと入れ替えたとしても誰も何の違和感も抱かないだろう。
「Komisch. (奇妙だな)」
ハンスは塀の上に腰掛けてそれを見ていた。
青空の下、生徒達は同じ服を着て、号令一つで行動を変えた。それは見事に揃っていた。整然としたその列を美しいとも思ったが、違和感も覚えた。彼は無意識のうちに数を数え始めたが、100を超えた頃には混乱してやめた。それから、縦と横の人数を数え、掛け算した方が早いのではないかと考えた。生徒達は枡の目ように揃っていた。枡に並べられた駒のように……。

「おもちゃの兵隊みたいだ」
進めと言われればどこまでも進む。そこに個性は感じなかった。閉じ込められた感情。彼らは皆、無表情だった。
学校では定期的に朝礼という集会を行っている事を、ハンスは知っていた。そして、今は5月にある体育大会の練習をしているのだという事も聞いている。それでも、彼にとっては興味深さを通り越し、違和感だけが広がっていた。
(ユーゲント……でも、あの子達は何の疑いも持たないのだろう)
「もう、行かなきゃ……」
ハンスは校舎にはめ込まれた大時計を見ると急いで塀から飛び降りた。今日は音大でレッスンを行う日だった。

――大成しそうな奴はいたか?
――2人。男の子は感性が良くて、女の子は技術がいい。克服すべき弱点は大きいけど……

音大でのレッスンは1時からだった。が、ハンスは昼食に間に合うように電車に乗った。教え子の井倉優介(いくらゆうすけ)と学食に行く。その学生と会うのは3度目だった。初めはハンスを留学生だと勘違いして気さくに話し掛けて来た。が、彼が招かれた講師であると知ると急に尻込みして離れようとしたが、ハンスはそんな彼を放そうとしなかった。

――男の子は感性が良くて

「僕に上手く育てられるといいのだけど……」
ハンスは美樹にそんな言葉を漏らした。
「大丈夫よ。あなたならきっと出来ると思うわ。だって、あなたは天才なんだもの」
「美樹……」
彼女はいつもハンスの味方になってくれた。他の誰の事よりも自分を信じてくれた。ハンスにとって、それがうれしかった。
「ああ、美樹。僕だけの小鳥……。愛してるよ、誰よりも……」
彼は幸せだった。ずっと巣箱の中で二人、そうしていられたならば……。しかし、彼女の作品のアニメ化がスタートし、脚本に携わる事になっていた彼女は日増しに多忙になって行った。

付き合いで帰りが夜遅くなる事もあった。ハンスは心配になり、夜の街に出た。そして、昨晩、美樹が男女数人と居酒屋から出て来るのを目撃した。彼女は男達に囲まれ、楽しそうに笑っていた。
(僕の小鳥……)
ハンスがそちらに向かって駆け出そうとした時、不意に呼び止められて足を止めた。
「あれ? バウアーさんじゃないですか」
振り向くと先日、家を訪れて来た武本と、宮坂高校の若井が立っていた。二人は同じ黄色い腕章を腕に巻いていた。
「こんな所でお会いするなんて奇遇ですね」
若井が言った。
「あれ? 君達、知り合いだったですか?」
ハンスが怪訝そうな顔をする。
「何だ。もう武本先生の事もご存知だったんですか? 顔が広いんだなあ。彼、この4月からうちに来た美術の先生なんですよ。今夜は二人で夜の見回り当番なんです」
若井が言った。

「見回り当番って……?」
ふと見ると、美樹達はタクシーに乗り込むところだった。が、ハンスは家に帰るのだろうと思ってそのまま見送った。
「生徒達が夜の街で遊んでいるという情報があったんです。それで、教師である僕達が巡回する事になったんですよ。夜の街には危険がいっぱいですからね。子ども達を守るのは僕達大人の義務ですから……」
武本が説明する。
「へえ。学校の先生ってそんな事までするんですか?」
意外そうな顔をしてハンスが訊いた。
「実は、いろいろ雑用が多いんですよ」
若井が頭を掻きながら言う。
「でも、やり甲斐はありますよ。将来、この国を背負って立つ若者を育てているのですからね」
武本は胸を張って言った。

「それはなかなか大変だ」
ハンスが首を竦める。
「いいえ。これも大切な仕事の一つですから……」
真面目な顔で武本が言う。
「あは。それは先生の方じゃなくて、子ども達の方が大変だって言ったですよ」
ハンスが笑う。
「それってどういう意味ですか?」
若井が訊いた。その時、大通りの方からバイクの音が聞こえた。
「ちょっと、若井先生、あれってうちの生徒じゃないですか?」
武本が早口で尋ねる。
「あ、ほんとだ。しかも、後ろに乗っけてるの中等部の女の子ですよ」
慌てたように若井も言う。

「行きましょう」
武本がせっつく。
「そうですね。バウアーさん、そういう訳ですので、今夜はこれで」
そう言うと二人は同時に駆けだしていた。
「Viel Glück! (幸運を!) 多分、追い付けないと思うけどね」
彼は、さっき美樹達が出て来た店のネオンの光を見ながら呟いた。
「将来、国を背負って立つだって? それは歯車の一つにするって意味の間違いだろう」
皮肉に笑う彼の横顔に映る暖色の光。
(誰かいる!)
彼は足を止め、周囲を見た。が、そこに人の気配はなかった。
(窓の向こうか? それとも……闇に紛れた風の住人……)
明るい電球に囲まれた看板を通り過ぎ、ハンスは大通りへ出た。
しばらく注視してみたが異変はなかった。特に危険も変化も感じなかったので、彼はその足で家に戻った。


当然、車で帰った美樹が先に着いているだろうと思って玄関を開けた。が、灯りは点いていなかった。彼を迎えに出て来たのは2匹の猫だけだ。
「美樹……」
彼は家の中を歩き回った。それでなくとも、このところ美樹はずっと原稿書きの仕事に追われて忙しくしていた。その上、アニメ関係の仕事が加わって、さらに多忙になった。
「過重労働だ!」
彼は拳を握ってそう言った。足元に纏わり付いていた猫達がその顔を見上げる。
「おまえ達だって、そう思わないか?」
ハンスはしゃがんで猫達に訴えた。
「僕は美樹が幸せそうにしていたから……。彼女の笑顔を見ているだけで幸せになれたから我慢したのに……」

彼女は今夜、ハンスには見せた事のないような明るい表情で、他の者達と笑い合っていた。それは仕事の上での社交に過ぎないのだと理屈ではわかっていた。しかし、感情がそれを打ち消し、頭から離れなかった。
「美樹……」
彼はピアノの蓋を開け、滅茶苦茶に和音を弾いた。時間は11時を過ぎていたが、地下室には行かなかった。
美樹は深夜にリビングのピアノを弾くなと注意したが、今はその彼女はいない。隣家の白神家とは少し離れている。口うるさい白神の奥さんにしても、ハンスが音大で教えていると知るとピアノの音なら気にならないので存分にどうぞと言って来た。それまで散々、彼の事をヒモだとかニートだとか中傷していた同じ人物とは思えない豹変ぶりに呆れたが、それまで何度となく人間の闇を見て来た彼にとって、それは想定内の事ではあった。

結局、美樹が帰って来たのは、午前零時を過ぎた頃だった。
「ただいま、ハンス。ごめんなさい、すっかり遅くなっちゃって……」
美樹はソファーにバッグを置くと洗面所に行こうと歩き出した。
「僕、ずっと待ってたんだよ。君が帰るのをずっと……」
行く手を遮るように前に出た。
「仲間内ですっかり盛り上がってしまったのよ。スポンサーの一つが理恵子の会社だったの。それで彼女達も合流したものだから……」
理恵子というのは美樹の幼なじみで、今はベビー用品の会社を経営していた。ハンスも一度、友人として紹介された事があった。
「それにしたってさ。君、最近働き過ぎてる。僕は心配なんだ」
「大丈夫よ。そりゃ、ちょっとは締め切りに追われて大変な事もあるけど、好きでやってるんだもの」
「僕を一人にしないで……」
泣きそうな表情で彼が見つめる。

「ハンス……。あなたとはずっと一緒にいられるじゃない。同じ家に住んで、同じベッドで寝て、それ以上何を望むの?」
半ば呆れながらも、彼女は子どもを宥めるようにやさしく言った。
「寂しいんだ」
ハンスが訴える。
「でも……24時間ずっと一緒にいるなんて無理よ。あなたにだってお仕事があるでしょう?」
彼女が諭す。
「それでもだよ。ねえ、お願いだから、今すぐ仕事なんかやめちゃって、ずっと僕の傍にいてよ。僕だけを見て! 僕の言葉だけ聞いて! 僕だけを愛して! 僕だけを……」
ハンスは強く彼女を抱き締めた。
「いい加減にして!」
そんな彼の腕を外すと美樹が叫んだ。
「いったいどこまで束縛したいの? 初めに言った筈よ。小説を書くのも、それをアニメ化するのもわたしの夢なんだって……。それを邪魔する事なんて誰にも出来ない。いいえ! 誰であろうと邪魔させたりしない。たとえ、あなたにもね!」
「美樹ちゃん……」
強い口調で言われ、ハンスは呆然として引き下がった。

「わかった? それなら放して。洗面所に行くんだから……」
柔和に言ったが、彼は納得しなかった。
「いやだ!」
そして、強引に彼女の肩を抱くと唇を寄せた。
「いやよ! やめて!」
「逃がさないよ。君は僕の小鳥なんだから……! 愛してるんだ。こんなにも深く愛して……」
「愛してるって……。どういうつもり?」
抵抗出来ず、美樹が涙を溜めて言った。彼はその肩に顔を押し付けていた。ピアノの上に飾られていた天秤は、少し傾いている。
「体が欲しいの?」
秒針が一周回る程の時間が過ぎた時、彼女が言った。
「美樹……」
彼がふと顔を上げ、首を巡らす。静かに微笑する彼女の頬に、涙が伝っているのが見えた。
「所詮はあなたも他の男と同じように……。そんな風に……。強引に束縛して、わたしを閉じ込めたいのね?」
「違う……」
その声は震えていた。腕の中に収めていた彼女に非難されて、彼は激しく動揺していた。

「何が違うの? やっぱり……あなたはもう……ルイじゃない」
彼女の瞳から次々と涙が溢れた。
「美樹……」
「そうよ。もう、わたしの小さなルイじゃない。消えてしまったんだわ。わたしの中からすっかりいなくなって……」
美樹は微かに震える鳥のように首を振った。
「僕はルイだよ。忘れちゃったの? 僕はずっと……」
見つめ合う二人の瞳には、同じように涙が滲んでいた。
「もう、いや……」
それは、聞き取れないくらい小さな声だった。
「嫌い」
彼女の唇がそう動くのを、ハンスは黙って見つめていた。それから、自分でもその動きを真似して、そこから漏れた声を聞くと愕然とした。
「嫌い……? 僕の事が……。嫌いって……。どうして……?」
その肩を掴んで揺らす。

「やめて! アニメ化するのはわたしにとっての夢だったのに……。それを知っていながらやめろだなんて酷い! 嫌いよ! わたしにそんな事を言うあなたなんて……大嫌い!」
強引に彼の腕から逃れると美樹は言った。
「出て行って!」
「美樹……。どうして、そんな事言うの? 僕、ここにいたいよ。だって、僕……」
呆然と立ち尽くしている彼の脇を通ると彼女はバッグを掴んで言った。
「いいわ。あなたが出て行かないのなら、わたしが出て行く」
そして、彼女は玄関へ向かった。
「美樹……!」
彼は追わなかった。玄関が閉まる音が聞こえた。それから外へ歩いて行くヒールの音が耳の内側で響いた。今、追い掛けて止めればと彼は思った。が、彼にはそれが出来なかった。
「逃げてしまった……。僕の小鳥……。嗚呼、僕だけの可愛い小鳥が……!」
そして、彼は膝を突くと顔を覆って泣き崩れた。


電車の中は程々に混み合っていた。ハンスはドアの付近に立って外を見ていた。踏切から踏切へ信号が点滅して行く。すれ違う電車の風圧に震えるドア。柵の向こうに続くのは、葉桜の並木と同じような区画に並ぶ住宅。

「見て! ホワイトローズだ!」
背後で子どもの声がした。振り返ると3、4才の男の子が電子広告を指差していた。電車の中にも様々な広告が掲示されている。初めのうちは目を引いたそれらも、今ではほとんど彼の印象に残るものはなくなっていた。
「ホワイトローズ……か」
彼は口の中で反復した。それは、自由を求め、宇宙を舞台に駆け回る宇宙義賊の物語。その原作は、美樹が書いた小説だった。放送されるとたちまち若者達の心を捕らえ、人気になった。ハンスもその作品のファンだった。が、その制作に美樹は関わっている。いくら内容が良くても、そのせいで彼女と過ごす時間が減ってしまう。人気が上がれば上がる程、彼女と離れて行ってしまうのではないかという不安が、漠然と彼の心を重くした。

細いバーを掴んでいる彼の左手には包帯が巻かれていた。視界の隅で揺れるそれは、まるで白薔薇のように見えた。
(Weiße Rose... (白薔薇……))
電車がカタンと揺れた。ハンスははっとして窓ガラスに映った人物を凝視した。黒い着物姿。
ハンスはその男を知っていた。それは、梳名家を知る者。
(茅葺庵)
その男は、何人かの若者と古書についての話をしていた。

(男が4人、女が3人か)
その中の一人は蓮と呼ばれているあの学生だった。彼らは皆、庵の事を先生と呼び、楽しそうに喋っていた。庵も笑顔を向けている。
(怪我はもう治ったのか。それとも、初めから怪我などしていなかったのか)
判断は出来なかった。途中、庵は一度だけこちらに視線を向けると軽く会釈した。が、ハンスはじっとその顔を凝視した。彼らは、次の駅で降りて行った。すれ違う瞬間、庵は彼に囁いた。
「手は大事になさい」
植物の匂いがした。ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出す。ハンスが降りる駅は一つ先だった。

――僕は罰を受けなければなりません

電車がカタンと揺れて、彼は昨夜の事を思い出した。
家を出て行った美樹は、1時間程して帰って来た。ルドルフと一緒に……。彼は明かりの消えたリビングにいた。美樹が明かりを付けると、アルファベートの積み木が絨毯の上に散乱していた。
「ハンス……。ごめんなさい。さっきは言い過ぎてしまって……」
美樹が詫びた。彼は黙って佇んでいた。美樹の背後にはルドルフもいた、彼女は真っ直ぐハンスに近づいて言った。
「駅まで行ったところで、ルドに会ったの。それで、話を聞いてもらったら、気持ちが落ち着いて……家に送ってもらったの」
美樹が近づくと、彼は何故か一歩後ろに下がって俯いた。二人の間には、積み木のIとCとHが転がっていた。隣には、LとIとVが、少し離れた所にEの文字が……。

「ハンス……」
「……ごめんなさい」
彼が言った。
「ごめんなさい。僕がいけなかったです。僕が我儘言ったの、とても悪かったです。君はちっとも悪くないのに、僕は君を縛ろうとした。だから、僕は罰を受けなければなりません」
「いいのよ。わたしだって言い過ぎたんだから……」
美樹はそう言って微笑み掛けた。が、彼はゆっくりと首を横に振って言った。
「……愛してるんだ」
そう言う彼の瞳は虚ろで、茫漠とした闇を想起させた。
「愛してる。愛してる。愛してる……。だから……」
ハンスは、後ろ手にしていたナイフを振り上げた。ルドルフが咄嗟に美樹を庇って前に出た。兄がその手から凶器を取り上げる。その刃先には赤い血が付着していた。嗚咽する美樹を見下ろしてハンスが微笑む。
「忘れないようにする。約束したのに、君を泣かせないって……。約束したのに、僕は馬鹿だからすぐに忘れてしまうんだ。だから、ここに刻んで置くよ。そしたら、忘れないと思うから……」
左手の甲には十字の傷が出来ていた。そこから流れ出る血が彼の前腕を伝って床に落ちた。ルドルフが急いでタオルで縛って止血した。が、結局救急病院で縫合してもらう事になった。

「彼は再現しようとしていたのかもしれない……」
病院の待合室で処置が終わるのを待っている時、美樹が言った。
「何をだ?」
ルドルフが訊く。
「アルファベートを並べて、愛を取り戻そうとしていたのかも……」
「取り戻さなければならない程、離れてしまったのか?」
「いいえ。そんな事ない。ただ……」
美樹は逡巡していた。バッグを握った手が震えている。
「怖いの」
非常灯のランプさえ不穏に見えた。
「彼の一途さが……」
処置室のドアは閉ざされていた。廊下は静寂な空気に包まれている。
「もう……無理なのか?」
ルドルフが訊く。
「いいえ。でも、こんな事が続いたら……」
男はそっと美樹の肩に手を乗せて言った。
「確かに、今回の事は行き過ぎてる。だが、許してやってくれないか? あいつの頭には、おまえの事しかないんだ」

その時、診察室のドアが開いて、ハンスが出て来た。左手には白い包帯を巻いている。
「一週間したら抜糸出来るって……」
ハンスが言った。
すると、いきなり美樹が彼に近づいて怒鳴った。
「馬鹿!」
面食らっている彼に美樹は続けた。
「こんな事して……。ピアノが弾けなくなったらどうするの?」
「美樹ちゃん……」
「その手はあなただけのものじゃない。わたしにとっても大事な手なんだから……」
そう言うと彼女は白い包帯の手を取ると、そっとキスした。
「美樹……。愛してるよ、だから、お願い。僕の事、怖がらないでね。僕は、いつだって君の傍にいる。そして、君と、君の夢を守ります。だから、お願い。僕を嫌いにならないで」
「そう思うなら、もう二度とこんな事しないでね」
「わかった。約束するよ」

――約束

音大に着くと早速、黒木が飛んで来て、手に巻かれた包帯の事を訊いた。
「ああ、これは何でもないんです」
そう素っ気なく答えて、井倉と食堂に入った。黒木はくれぐれも手は大事にしてくださいと泣きそうな顔で言った。井倉も心配そうな顔をしていたが、それ以上の事を尋ねて来るような事はなかった。
「君、僕と約束しませんか?」
食堂でクリームソーダを飲みながらハンスが学生の井倉に言った。
「何をですか?」
井倉が問い返す。
「君、初めて会った時言ったでしょう? ピアニストになって、世界中の子ども達に夢を届けて回りたいんだって。その夢、絶対叶えるって僕と約束してください」
井倉は困惑していた。何故、そんな事を言い出すのかわからなかったからだ。しかし、そう言ったのは自分自身だ。彼は頷いた。
「はい。約束します。どんな事があっても諦めないって……。ピアニストになるのは、僕の夢だから……」
ハンスはそれを聞いて微笑んだ。

その日、井倉が弾いたのは黒鍵のエチュード。ハンスは合格点ぎりぎりのCという評価を与えた。合格といっても、まだ伸びしろはある。練習量が足らないのだ。ハンスもそれは承知していた。この学生は学費を稼ぐためにアルバイトをしている。それに時間を取られて、思うような練習が出来ないのだ。それでも、諦めずに夢を追っている若者にハンスはエールを送った。それで、叶うかどうかは未知数だ。が、身体に不調を抱えているハンスにとって、後輩を育てる事は自分自身の喜びにも繋がる。彼は必要以上に熱心になっている自分の心に苦笑した。そして、もう一人。

――女の子は技術がいい

有住彩香(ありずみさやか)。名門有住家の令嬢である彼女の技術はハンスも一目置く程高かった。しかし、その彼女の評価は毎回D。つまり不合格であるとハンスは告げる。
「先生、何故ですか? 理由を教えてください」
彩香は不満そうだった。
「理由がわからないようでは次も不合格でしょう。でも、それを乗り越えられる力があると僕は信じます」
が、言われた彩香は困惑していた。そして、その困惑はハンスも同様だった。

「テキストの模範演奏をするだけのピアニストになるのなら、それでも十分でしょう。実際、そんな弾き方をする有名ピアニストもいます。でも、それではあまりに味気ない。僕は、ピアノはもっと自由でドラマティックであるべきだと思うのです。確かな技術に裏打ちされた奔放さが、人の心を掴む。変幻自在な表現を鍵盤の上で見せられる技術。それがプロのピアニストだと思う」
しかし、それを実際、指に覚え込ませるのには時間が掛かる。だが、のんびり待っていては遅いのだ。それをどう教えるか、悩みは尽きなかった。


「奔放に弾ける腕」
抜糸が済むと、ハンスは若い弟子達にどう指導すべきか苦慮するのだった。彼がピアノを弾いていると、美樹が来て聴くようになった。
彼女の視線を感じていると、ハンスも幸せになれた。
「君だけのためにピアノを弾いていられたらいいのに……」
弾き始めてから30分が過ぎた時、ハンスが言った。
「怪我した手は大丈夫なの?」
「少し突っ張るけど、こんなのは平気。だけど、長く弾くと、やっぱり手が痺れて来る。ずっと弾いていたいのに……。君のためにずっと……」
「ありがとう。でも、無理しないでね。その30分を大切にしよう。わたし達にとっての至福の時間を……」
二人はピアノを通じて、再び絆が強まっていた。

そして、ゴールデンウイークが過ぎた頃。異変は起きた。音大のレッスンに井倉が来なかったのだ。初めは体調でも悪いのかと思った。が、噂では大学を辞めてしまったのではないかと囁かれていた。
(何かあったのかな?)
ハンスにはどうしても納得がいかなかった。彩香にも訊いてみたが知らないと言う。

(せっかく友達になれたのに……)
それ以来、井倉が学食に来る事もなく、ハンスは一人で侘しく食事した。
(約束したのに……)

ところが、帰り道、偶然見上げた空に星を見つけた。高いビルの屋上近くに、それは光って見えた。そのビルに上ったら、手が届きそうだと思ったハンスはそちらに向かって駆け出した。そして、もう一度上を見た時、屋上に立つ人影を見た。
「井倉優介……」
それは、間違いなくハンスの知る学生だった。彼はフェンスの外側にいて、空を見ていた。次の瞬間。身体がゆらりと傾いた。
「いけない!」
ハンスは駆けた。そして、勢いよく風に乗った。彼は宙を飛び、落下する井倉の身体を抱え、ビルの脇の駐車場に降りた。そして、その身体をそっと地面に寝かせた。井倉は意識を失っていたが、心臓はまだ動いている。顔は青ざめて、少しやつれているように見えた。
「何とかセーフでした」

そこはビルの谷間にあり、風の渦巻く所でもあった。黄昏は深い夜の闇に溶け始めている。周囲には植え込みがあり、街灯が灯り始めた。ビルの窓にもちらほらと明かりが覗く。駐車場の監視カメラが一つ、こちらを向いていた。
「悪いけど、君には目を瞑ってもらうよ」
ハンスはそのカメラに向かって風の弾丸を撃ち込んだ。乾いた音が小さく響き、カメラは機能を停止した。
(見られたかな?)
彼はビルに灯った窓明かりを眺めた。そこには幾つかの人影もあったが、目撃されたかどうかは確認出来ない。
(ルドが文句を言うかもしれないけど………)
目を閉じたきりぴくりともしない青年を見下ろして、ハンスは思った。
(仕方が無いさ。緊急事態だったんだ)
彼自身の鼓動も緊張を帯びて加速していた。瞳もほんのり光を帯びている。
「でも、ここは早く移動した方がいいな」
遠くでサイレンの音が鳴っている。ハンスはそっと若者の身体を揺すって言った。
「君は運が良かったですよ」